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平成13年春不動寺庫裡屋根修理前の角瓦



創 建
 
私の自坊は、正式名を高野山真言宗 瑞宝山 不動寺という。
一六〇一年(慶長六)創建と伝えられ、約四〇〇年の歴史をもつ、
由緒ある田舎の貧乏寺である。
 空海上人(弘法大師)が高野山に登る途中、当地で荒行をした際、
霊夢に不動明王が現れ、ここに一堂宇を建立したという伝説がある。
これに心打たれたある長者が、後に不動寺を寄進建立したと伝えられている。

漆喰で隠された菊の紋

 
不動寺は、紀伊高野山から京都、奈良、泉州への街道道沿いにあり、
高野山金剛峯寺の別院末寺として建てられたとも言い伝えられている。
 このことは、庫裡の屋根に葺かれた、軒丸瓦や角瓦すべてに、
当寺勅願寺にしか許されなかった菊の紋が施されていることから、容易に推察できるのである。
さらに、平成十二年、老朽化した庫裡の大修理を発願したときの簡単な調査で、
屋根の棟瓦に葺かれた直径二寸ほどの、無数の小さな差し込み瓦にも、
すべて菊の紋が刻まれていたことが分かった。(写真上)
 しかし、これらの菊の紋は、明治初年の「神仏分離令」、「廃仏毀釈」という、
仏教にとっての最大危機のとき、「日本は神国」であり、「天皇は神」であるとして、
「仏教寺院に天皇家の菊の御紋を使用することは、以ての外」との沙汰に従い、
この庫裡の屋根瓦に施された、すべての菊の紋は、漆喰で塗りつぶされたのである。

本堂の基礎は大岩盤の一枚岩

 
不動寺は紀伊風土記に書かれているとおり、
本堂には基礎石がなく、
一枚の岩盤上に直接建てられた、珍しい建築様式をのこしている。



 かつて本堂前の両脇には二本の黒松が植えられていました。
本堂に向かって右側の松は約70年前に枯れてしまい、
その後左側の松だけが本堂を護り続けるとともに
400年以上不動寺の歴史を見つめ続けてきました。
 ところが平成22年9月頃から松葉が茶色に変色しはじめ、
その原因はその年の真夏の猛暑ではなく「松食い虫」であることが判明し、
丁重に供養され、ついに伐採されました。

不動寺は旧高野街道の宿場町


当地は旧高野街道の重要な宿場町で、大和街道と高野街道の分岐点にあたり、
昭和三十六年頃まで、毎年開かれる歳の市には、
近在から多くの人が買い出しに来て、にぎやかだったことを覚えている。
また、高野参りの巡礼者たちは、
旅館や茶店、薬屋などが軒を連ねていたこの村の茶屋町とよばれる通りで、
宿をとったり、あるいは必要なものを買い求め、高野山へと登っていったのである。
 今は立ち寄る人もほとんどいなくなったが、
唯一、町はずれにたたずむ「右高野山大門五里」の道しるべが、
かつての往来にぎやかなりし頃を偲ばせている。
 紀ノ川の水上交通の要衝でもあったこの村は、
古くは「大津(おおづ)」と書かれていたが、
かつて、麻の栽培が盛んなこともあって、
現在は「麻生津(おおづ)」と、振り仮名がなければ読みがたい漢字に書き換えられている。
 不動寺は、紀伊高野山から京都、奈良、泉州への街道道沿いにあり、
高野山金剛峯寺の別院末寺として建てられたとも言い伝えられている。






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